「グローバルと日常」最終回(4/4)

外国人と接していると、かれらが日本での「日常」を築く上での困難に、色々な場面で接することになる。

中学校の保護者面談では、「高校進学は難しい」との担任の言葉に、その場で涙する親子がいた。NPOが開催する外国人のための学習教室には、忙しい仕事の合間をぬって送迎する両親の姿があった。我が子の成績に悩み、私にこっそり「家庭教師をやって欲しい」と頼む親もいた。将来、子どもが幸せになって欲しいという「親の願い」は、日本人と何ら変わらなった。また、教育費を賄うため、安定した仕事を得ようと、夜間の日本語教室に通う保護者も多かった。

ある時、外国人子どもの父親から、「オレ達は苦労を覚悟で日本に移住しているのに、日本人はオレ達を受け入れる覚悟をしていないよな」と言われ、返答に困ったことがあった。一方、近年日本では、「世界で通用する若者を育てよう!」など、外向きのグローバル化ばかり謳われ、私はどうしても現状とのズレを感じてしまう。日本に住む大部分の外国人は、私たちと同じように、「普通の生活者」になりたいのだ。「日常を築くことの尊さに国境は無い」ことに、日本人もそろそろ気付く必要がある。

「外向きが不要だ」、などと決して思わない。しかし、外国人が必死になって、当たり前の「日常」を築こうとしている現実こそ、最も近くに存在する「生(ナマ)のグローバル」であり、私たちが最初に目を向けるべきことではないだろうか。私にとっての「グローバル」は、この狭い日本にひしめいている、様々な違いを抱えた人々の「日常」をごちゃ混ぜにした、「まぜご飯」のようなものだ。

〈初出:『世界を見るための38講』第24講、宇都宮大学国際学部編、下野新聞社〉

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