「グローバルと日常」(3/4)

一日中外国人の相手をしていると、他の教員から「若林先生は、毎日まるで外国に居る気分でしょう〜」、などと言われたが、それは全くの間違いだった。毎日が、「自分が日本人であることを思い知る」日々だった。

「どうして、ひらがなと漢字を使い分けるの」、「どうして縦書きなの」、と聞かれ、その場で子どもを納得させなければならない。「書く時は紙を真っ直ぐ置く」「姿勢を正す」など、日本人の子どもには「日常的」なことも、いちいち納得しなければ先に進めないのである。

そんな時、私はイラストを使いひらがなの成り立ちを説明した。また、「昔はみんな筆で書いていた」と伝え、その手に筆ペンを持たせた。そして、子どもにとって覚えたばかりのひらがなで、「ありがとう」の文字を、「縦書き」と「横書き」で書かせた。もう説明は不要だった。子どもは、「日本語は縦書きのほうが書きやすい」と身体で感じ取り、私に向かいニッコリ笑うのだった。

「学校生活」という、子どもにとっての「日常」が成り立たないので、保護者との接点も多く生まれた。家庭訪問し子どもの学校での様子を伝えたり、持ち物について身振りや実物を使って伝えたりした。そんな時、「ワゴンシャ」の「ソーゲー」で、工場から帰宅したばかりの母親は、誰もが快く私を向かえてくれた。ちなみに、「ワゴンシャ」も「ソーゲー」も、派遣労働の外国人の間では「日常」となっているニホンゴである。

昼間の、いわゆる3Kと言われる工場勤務で疲れているにもかかわらず、ろくに通じない私の言葉を熱心に聞いてくれた。母親たちが出してくれる飲み物は、なぜか必ずとっても甘かった。私は、日本の食生活とは明らかに異なる匂いでいっぱいのキッチンに座り、どの家族も必死で日本での「日常生活」を築き上げようとしているのを感じていた。

〈初出:『世界を見るための38講』第24講、宇都宮大学国際学部編、下野新聞社〉

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